2008年01月13日

理由【4】

 二人が辞めた理由ももう思いつかない。
 いくつ挙げたかもわからないが、それらの尽くは店長に否定されている。
「店長、いい加減二人が辞めた理由を教えてよ」
「さて、どうしましょうか」
 どうしてここまで隠すのだろうか。
 もしかして、私は店長にからかわれているのかもしれない。実はたまたまシフトが合わなかっただけで、二人とも辞めてないのかもしれない。そうであってほしいと思う。
「ねぇ、実は二人とも辞めてないんじゃないの?」
「それはないですね。二人とももういませんよ」
「じゃぁ、なんで辞めたのよ」
「さぁ?」
 私はだんだんイライラしてきた。このオッサンをどうしてくれようか、というところまで考えそうになっている。今なら他に人もいないから、こっそり処分しても誰も気がつかないかもしれない。
 その時、珍しく私以外の客が店に入ってきた。
 40前後らしいと見える男性だった。その男性客は店長の姿を見ると、少し残念そうな顔をした。
「あれ? 今日もマスターなんだ」
 この人も二人の姿を最近見ていないようだ。それにしても、この店長に「マスター」という呼称は似合わない。
「もうあの二人はやらないの? それとも新しいネタを仕込み中?」
 男性客の言葉に私は思わず振り返った。
 やらないとはなんだろうか?
 ネタを仕込むとはなんだろうか?
 私は今きっと間抜けな顔で、入ってきたばかりの男性客を見ているだろう。こんな間抜けな顔は久しく他人に見せていない。
 男性客は間抜けな顔をした私を不思議そうに見ながらも、私の隣に座る。
「君よくここに来てるでしょう。でも、気づいてなかったのかい?」
「……気づくって?」
「本当に知らないんだ。なんかおかしいな、って思ったこともないの?」
 男性客は珍獣を見るかのような顔で、私を見ている。
 その顔を見かえしているうちに、なんとなくわかってしまったような気がする。というよりも、こんな理由ならわかりたくなかった。

 言われて考えてみると、三人の内誰か一人に話したことは、他の二人もいつの間にか知っていたりした。同時にカウンターの内側に入っていることを見たことはないけど、どこかで何かの折に話したりしたのだろう、としか思ってなかった。
 客の顔を見て最適なものを勧める、ということも、店長くらい年がいっていればできても不思議ではなかったが、喜多君のような若い子ができるということは不思議だった。
 三人が同一人物なら、三人とも同じ客の情報を知っていて当たり前。一人ができることは皆できて当たり前だ。

 店長を見ると、曖昧に笑っている。
「……ていうか、無理でしょう。あんなに若く化けるのは」
 店長の顔にはいくつかのが刻まれている。いくら薄暗い店内だとはいえ、化粧で簡単にごまかせるとも思えない。そんな簡単に皺がごまかせる化粧方法があるなら教えて欲しいくらいだ。顔の形だって違うというのに。店長とこの男性客で私をからかっているのだろうか。
「マスターは特殊メイクの達人だよ」
「は?」
「今度ハリウッド映画のメイクを担当するんだよね、マスター。だから店も閉じちゃうんでしょう。寂しくなるなぁ」
撮影が終わったら、また戻ってきますから」
 まさか、二人が店長のメイクで作り上げた人物だったとは。さすがにこれは思いつかなかった。
 店長のメイクの腕も驚きだけど、それを演じ分けていた技量の方が凄いと思うのは私だけだろうか。
 こんな店をやっているより、役者の方が儲かるんじゃないだろうかと思ってしまう。

 それよりも、来週から金曜の夜はどこで過ごそうか……。
posted by はにわさぼてん at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月12日

理由【3】

 もう一人の古株、七里さんは静かな人だった。私より十歳、とまではいかなくて五歳以上年上だろう。喜多君とは違い、体つきも顔つきもしっかりとしていた。

「今日はずいぶん静かですね」
 黙って飲んでいた私に、七里さんが声をかけてきた。
 いつもは私が適当なことを話し、七里さんがそれに相づちを打つという会話をしていた。会社の中では不必要にうるさい上司や部下の男性に、こちらの話を遮られることも少なくない。そのせいか、七里さんくらいの年の男性はよく喋るのかとも思っていた。
 自分の話をきちんと聞いてくれるというのが嬉しくて私はなんでもよく話した。仕事のことも話したし、プライベートについて話すこともあった。喜多君ともよく話すけど、彼にはなんとなくプライベートのことはそれほど話していない。何か一つ話したら、そこから色々とつっこまれそうな気がしていたのだ。
 それなのに、今日は珍しく何も話さずにいたものだから、やはり珍しく七里さんから声をかけてきたのだろう。
 七里さんの声は低い。そしてどこか甘い。腰に来るような声、というのは七里さんのような声のことをいうのかもしれない。
「ちょっと、あまりにも疲れてて」
 いろいろな話を聞いてもらって、いつもならそれですっきりして帰るのだけれども、今日ばかりは話を聞いてもらおうという気力さえない。
 こういう時に店にいるのが七里さんで本当に良かったと思う。店長だと気疲れしてしまうし、喜多君が相手だと楽しくて話しすぎてしまい変な方向に疲れてしまう。
 何も会話がなくても疲れない相手。
 若い時にこういう人と出会えていたら、私の人生はもう少し変わったものになっていたかもしれない。
 グラスが空いたのを見て、七里さんは新しいカクテルを出してくれた。口の広いグラスに入った綺麗な淡い色。あまり私のイメージにはないから、普段こういう綺麗な色のカクテルを頼んだことはない。
 どうしたのだろう、と七里さんを見上げると、彼はほんの少しだけ笑ったような気がした。
「お疲れのようですから、少し甘いものを、と」
 その心遣いが私の中に染み入っていくのを感じて嬉しかった。
 一口飲んでみると、言葉通りに甘い。けれど、甘過ぎはしない。アルコールもきつくなく飲みやすかった。疲れ果てた一週間の終わりにはふさわしい味。この一杯で終わりにしてゆっくり休もう、という気にしてくれる。
 もしかしたら七里さんはそこまで考えてくれていたのかもしれない。
「おいしい。ありがとう。今夜はこれを飲んだら帰るわ」
 私は七里さんの心遣いに、素直に従うことにした。

 こんなにも素敵な二人が、どうして辞めてしまったのだろうか。
 勤務態度に問題があったようにも思えない。人件費削減のためでもない。ケンカ別れでもない。
 いったい、何があったというのだろうか。
posted by はにわさぼてん at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

理由【2】

 この店にいた古株の一人、喜多君は話しやすかった。人懐こい猫のような顔をしているのも好感が持てた。

「上田さん、こんばんは」
 店のドアを開けると、高くも低くもない不思議な響きの声が迎えてくれた。
「こんばんは。今日は喜多君なのね」
 そういいながら、私はカウンターの真ん中の席に座る。そこに座ることに特に意味はなかったけど、いつの間にか指定席のようになってしまっていた。
 私が座るのと同時に、カウンターの上に丸いコースターが置かれる。店の雰囲気にあったワインレッドのシンプルなロゴが印刷されている。
「上田さん。その顔は夕食食べてませんね? 何か軽く食べますか?」
「そうね。お願い」
「じゃぁ、ボクの特製大盛り牛カルビ丼を」
「全然軽くないわよ」
「冗談ですよ」
 喜多君のこういうところが凄いと思う。店には行ってすぐに、私の顔色を読んで、最適なものを出してくれようとする。冗談も必ずセットでついてきたけど。
 もしかしたらこういう職業の人は必ず持っているスキルなのかもしれない。実際、ここの三人は皆できるのだ。コツがあるなら教えて欲しい。実際にそう聞いたら、慣れですよ、なんて喜多君に言われてしまったけど。私より若いのに、経験量が違うのだろうか。
 そんなことを考えていた私の前に、オードブルのようなものが出された。
「あと、ビールもお願い」
「ビールですか。珍しいですね」
「今日はビールが飲みたい気分なのよ」
 私はビールはあまり飲まない。あの苦みと炭酸が好きになれない。だから大体飲むのは口当たりのいいワインか、カクテルだった。けれども、今日は来年度の予算のことで上司と派手にやりあったせいか、珍しくビールが飲みたい気分になっていた。なんとなく派手に呷っても惜しいとも思えないのがビールだからなのかもしれない。
「彼氏とケンカでもしたんですか」
「そんなものいないって知ってるでしょう。怒られたいの?」
「はは。冗談ですよ」
 疲れた心に、冗談のやりあいが心地よかった。
 背筋の力を抜くことができるのが楽しかった。
 客に接する態度としてはどうかと思うこともあったけど、これはこれで気負いがなくていい。
 しかし、そんな私の癒しになっていた彼は、ここにはもういない。

 もう一人の古株も、喜多君とは全くタイプは違うものの、私にとっては居心地のいい相手だった。
posted by はにわさぼてん at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

理由

「ケンカした?」
「しませんよ」
 ひねり出した答えを、間髪いれずに否定され、私はまた頭を抱えだした。思いつく端から出していっているというのに、こうして尽く否定されている。
「人件費削減?」
「そこまで経営不振じゃないですよ」
「痴情のもつれ」
「誰と誰がですか。違いますよ」
 ここまで否定されると悔しさも留まるところなく膨れあがっていく。

 今までこの店に来て、ここまで店長と会話をしたことはなかったと思う。
 金曜の夜だというのに、静けさを保っているこの店は、自宅の最寄り駅前の繁華街から少しだけ離れたところにある。いわゆる穴場だった。
 地味な外観に一人で十分まわせるほどの、カウンター席だけの狭い店内。客の少ない静かな環境。落ち着いたクラシック
 偶然この店を見つけた私は、一回で気に入り、それ以来毎週金曜の夜にはこうして一人で飲みに来ていた。
 私の他にこの店の常連になっているような人達は、皆同じように考えているのか、互いに声をかけることは少ない。気まぐれに挨拶をすることはあっても、お互いのことを話すことはない。
 私も何度か他の常連らしい客の姿を見ているが、その人達がどんな人なのかも知らない。知ろうとも思わない。お互いがお互いの存在を黙認し、会話の相手は店員だけ。そういう店だった。

 この店で過ごす時間は、一週間の目が回るような忙しさを忘れられる、貴重なものだった。上司には女だと言うことだけで不必要な嫌味を言われ、努力をしようともしない部下に振り回され。声高に反発することも、叱ることもできない。そんな毎日のストレスを私はこの場所で解消しようとしていた。
 どんなに辛いことがあっても、慰めてくれるような人もいない私には、こういうことで自らを浮上させるしかなかったのだ。自分で選んだことだから後悔しているわけではなかったけど、それでも時々どうしようもなくなってしまう。どうしようもなく辛くなってしまった時は、この静かな店で世間から自分を切り離す。そうして私は今まで保ってきた。

 その聖域が変わってしまっていることに、私は今日初めて気がついた。
 本当はもっと早いうちから変化はあった。けれどあまりにも自然に変わっていたものだから気がつくことができなかった。

 この店は店長と、店員二人でまわしていた。そうは言っても、三人が、もしくはそのうちの二人がカウンターの中に一緒に立っているのを見たことはない。一人でまわせる程度の店だから、常にカウンターの中は一人だった。
 並びたくないほど仲が悪いんです、なんて冗談を言ったのは三人のうちの誰だったか。
 だから気がつくことができなかった。
 古株店員の二人がクビになっていたなんて。

 そういえば最近店長しか見ないなぁ、とは思っていた。けど、たまたまそういうシフトに行き当たっただけなんだろう、というくらいにしか考えなかった。
 そして今日なんとなく店長に聞いてみた。
「そういえば、最近七里さんと喜多君見ないけど?」
 一杯目のモスコミュールを少しずつ口に運びながら、グラスを磨いていた店長に聞いてみた。
 私は今まで店長とは、必要最低限と、ついでのようなわずかな会話をしたことしかない。普段プレゼンをしたりしている重役を相手にするのとは違い、どうにも距離感がつかめないでいる。重役連中も、この店長も同じくらいの年頃、同じような容貌をしているというのに。どうしても苦手意識をぬぐい去ることができないでいる。まだ勤務態度の悪い新入社員を相手にしている方がいくらか気が楽だった。
 店長はグラスを磨く手を休めることなく、私の問いに答えてくれた。
「あぁ、あの二人ね。クビにしたんだよ」

年明け連載第一弾
posted by はにわさぼてん at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月26日

今年の汚れは今年のうちに

大掃除ネタではありません。
忘れないうちに今年の戦果をメモっておこうかと。

2007/1/10コバルトロマン大賞
2007/2/28ポプラ社小説大賞
2007/2/28ジャンプ小説大賞
2007/3/31角川ビーンズ小説大賞
2007/3/31MF文庫J ライトノベル新人賞
2007/4/10電撃小説大賞
2007/4/30日本ファンタジーノベル大賞
2007/5/31創作童話コンテスト
2007/5/31第38回JOMO童話賞
2007/10/10青春文学大賞

これだけの公募に今年は出してました。

こう並べてみると、よくこれだけ書いたなぁ、という気にもなりますが、それと同時に、よくこれだけ落ちたなぁ、という気にもなります。これだけ出していて一つも引っかからないというのが逆にまた凄いかと。
最後の青春文学大賞はまだ一次選考の結果も出ていないんですけどね。

そして見事にジャンルはバラバラです。今年はミステリとかホラーは書いてなかったんですねぇ。常にどうやって殺人事件を起こしてそれを解決するか、なんて考えていたような気もするのですが。


来年は少し絞っていきます。おそらく2つか3つ。
さすがに下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、という次元ではなくなってきただろう、ということで。
初挑戦のジャンルにいってみようかと。
一つはいつかは書こうと前にも述べたとおり、時代小説。時代小説というカテゴリではなく、歴史小説もいいなぁ、とも思うのですが、ある部分に焦点をあててみよう、というほどの知識もないのでとりあえず時代小説。のほほんとした感じで。でもいつかは理想とする、素敵な男の生き様を書いてみたいです(笑
もう一つはSF。これはなんだか難しそうな気がして敬遠していたんですけど、書いてみよう、ということで。


私、ずっとSFは宇宙が舞台でないといけないものだと思いこんでいたんです(笑
Science FictionではなくSpace Fictionだと思っていたんですね。バカです。
言い訳かますと、SFというと宇宙が舞台になっているものが多いじゃないですか。漫画でもアニメでも。
そこで誰かがSFとはScience Fictionなのだ、と明言してくれていればよかったんですけど、すっかり宇宙モノだとすりこんでしまっていたんですよ。


時々、というか結構頻繁にこういう勘違いをしています。
posted by はにわさぼてん at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月22日

私と彼とクリスマス【4】

 周囲を見回したり、彼の携帯に連絡しようとしてみたりとしていたら。待ち合わせ時間から1時間近くが経っていた。
 彼の携帯にかけても彼は出なかった。周囲に彼の姿も見えない。連絡もない。待ち合わせの場所も時間も間違えてはいない。
 これはいよいよダメなのかもしれない。でも、そうだとしても突然どうして?
 まとまらない思考で考えようとしても、彼に聞かない限り答えは出るはずもない。
 もう帰ってしまおうか。
 そう思った時、視界の端に待ち望んでいた姿を捕らえることができた。それと同時に、向こうも私の姿を見つけたらしく駆けてきた。
「ごめん! 寒かっただろ」
 しきりに白い息を吐き出している彼の顔を見ると、無事でよかった、とか来てくれて良かった、といろいろな感情が噴き出してきて、私は涙をこぼしてしまった。
「えっ? あ、ごめん。そんなに寒かった?」
 気遣いのできないわけでもなく、むしろ優しい人であるのに、こういうときはとことん鈍いと思う。寒いだけで、顔見た途端に泣くわけないのに。
 声に出さずに毒づいたところで彼にわかるはずもなく、急に涙が止められるわけもない。
 慌てているような彼の雰囲気を感じながらも、私はこぼれていく涙を止めようと必死になっていた。
「あぁ、もう。会うなりいきなりなんだってんだよ」
 うんざりしたような彼の口調に、私は弾かれたように顔を上げた。
 口調と同じように疲れたような顔をしている。今までに見たこともないような表情、聞いたことのないような口調だった。
 忙しかったのもわかってる。休日出勤と残業できっと疲れているだとうということもわかっている。
 私だってそうだったから。忙しかったから、会いたかったからほっとして泣いてしまったというのに。
「ご、ごめん。連絡もなかったから何かあったのかと思って……」
 彼の口調にわずかな恐怖を覚えた私は、素直に思っていたことを言っていた。ここで腹を立てたりしたら口論になってしまうだろう。せっかくのクリスマスにそんなことはしたくない。
 私が考えていることがわかったのか、彼はすぐに表情を改めた。いつもの見慣れている柔らかい表情。ホッとする。
「あぁ、ごめん。今朝慌ててて携帯忘れて来ちゃって。連絡できなかったんだ。その、プレゼントとかどうしようかと遅くまで悩んでて」
 彼の答えに私は思わず笑っていた。
 おそらく朝起きた時に私からのメールに気がついたのだろう。彼は私より出勤時間は遅いから。それでも、あの時間に起きたとしたら遅刻になるかならないかのきわどいところだ。
「なんだ、私と同じことで悩んでたのね」
 私につられて彼もにへら、と笑う。
「そっか。じゃぁ、これから、はちょっと遅いから、今度買いに行こうか」
「うん」

 笑いあった後、私たちはようやく無事にクリスマスデートを始めたのだった。
 こんな人の多いところでケンカにならなくて良かったと思うけど、そういうドラマみたいな展開もおもしろかったかもしれない、と豪華な夕食を前に思ってみたりしたのだった。

長い……
posted by はにわさぼてん at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

私と彼とクリスマス【3】

 周囲を見回しても彼らしい姿は見あたらない。
 待ち合わせの時間まではあと10分ほどあるけど、彼のことだからそう待つことにはならないだろう。彼も時間にはしっかりしているから、毎回どちらかが何十分も待つようなことにはならない。同時に待ち合わせ場所に到着したこともある。
 彼の姿を探しながら、私はまだプレゼントのことを考えていた。手ぶらでここまで来てしまったのなら、いっそのことその場で彼に欲しい物を選んでもらうのもいいかもしれない。ヘタに嘘をつくより、素直にそうしたほうがいいかも、と私は考えていた。

 白い息を吐き出しながら私は彼を待っていた。
 待ち合わせ場所としては都合のいいところだったから、周囲には同じようにクリスマスデートをしようというカップルが何組もいる。私と同じように相手を待っている人もいる。
 しかし、その相手を待っている仲間も、次々と入れ替わっていく。
 ふと時計を見ると、もう待ち合わせ時間から15分も過ぎている。何の連絡もなしに彼がここまで遅れるのは珍しいことだ。
 残業を押しつけられてしまっているのだろうか。だとしても、遅れる、と一言連絡があってもいいはずなのに。
 電車が遅れているのだろうか、と携帯から運行情報を調べても、どの路線も遅れてはいない。
 もしかして、事故にでもあったのではないだろうか。
 そう思いついた途端、私は落ち着かなくなってしまった。そうとは限らない、とイヤな考えを打ち消そうとしても、視線は絶えず周囲を伺い、必死に彼を捜そうとしている。
 そんなことをしている間にも遅れる、と連絡が入るかもしれないと握りしめた携帯を見る。連絡が入っていないことを確認すると、視線はまた彼の姿を捜そうとしはじめる。
 どれだけ時間が経っただろうか、と時計を見ても、まだ5分も経っていない。秒針の動きがとてものんびりとしたものに見えてしまう。

 それらの落ち着かない動きを何回繰り返したかわからない。
 待ち合わせ時間から30分も経った頃には、私はすっかり泣きそうになっていた。
 彼に何かあったのだろうか。
 ひょっとしてすっぽかされたのだろうか。
 どんなに努力しても消えてはくれないイヤな考えを抱えたまま、私は一人で立ちつくしていた。
posted by はにわさぼてん at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月19日

私と彼とクリスマス【2】

 結局デートの待ち合わせ時間と場所が決まったのは、朝の電車の中だった。
 念入りなスキンケアの間にメールが返ってくることはなく、電車に乗るころを見計らったかのように返事が来たのだ。どうやら彼も今日出社することになってしまったらしく、夕方からのデート、ということで問題なく決まった。
 けど、それ以外の問題は何一つ解決していない。
 デートらしいコーディネートにできたつもりだけど、やはりどこか物足りない。この前見つけた白いふわふわのコート。買っておけば良かった。雑誌で見て気になったあのニットも現物を見に行きたかったし。一応スカートをはいてきたけど、クリスマスデートならもう少し可愛いスカートの方が良かったかもしれない。
 プレゼントも用意していない。
 考えるだけでテンションは落ちる。

 うっかり気を抜いたら鬱な考えにとりつかれそうになりながらも、なんとか休日出勤を終えることができた私は、待ち合わせ場所に急いだ。休日出勤、しかもクリスマスイブだというのに、残業させられそうになっていたのけど、冗談じゃないわ、と逃げ出してきた。

 待ち合わせ場所に向かっている間も、ひたすらプレゼントをどうするかと考えていた。
 今更「プレゼントは私」なんて古典的手法が通用するはずもない。彼が欲しがっているものはすぐにでもいくつかリストアップすることはできるけど、どうせならいろいろ見比べて検討したい。途中で目についたものをさっと買ってしまったら失敗しそうだし。それに、途中で買おうにも、待ち合わせ場所までの間に、それらしいものが買えそうな店が記憶の中にない。どこかに寄っていったら遅れてしまいそうな時間だし。私は待つのも待たされるのもイヤだから。買ったけど在庫がなくて取り寄せてもらってる、なんて嘘をつくことも考えたけど、自滅しそうだから却下。

 結局ぐるぐると考えているだけで、何の対処もせずに待ち合わせ場所に到着してしまった。
posted by はにわさぼてん at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

私と彼とクリスマス

「あぁっ! うそっ! やだっ!」
 私は顔に化粧水をつけていた手を止めて、思わず叫んでいた。
 今日は12月23日。現時刻は23:56。
 あと4分でクリスマスイブという時だった。
 そう。1週間前の私は、きっと前日はデートのことを考えてウキウキしているだろう、と浮かれた予想をしていた。
 しかし、今の私はお肌の手入れなどどこかにすっとんでしまうくらいに焦っていた。
 私はこのタイミングまで、明日の約束も何もしていないことに気がつかなかったのだ。
 至る所でクリスマスソングが流れ、どこもかしこも緑と赤に飾られていたというのに、どうしてそのことをすっかり忘れていることができたのだろうか。年の瀬の忙しさに振り回されすぎたのかもしれない。

 確かに1週間前には明日のことを考えていた。
 映画を見て、素敵なレストランで食事をして。夜景を見に行くのもいいし、どこか静かな店で二人で飲むのもいい。プレゼントは何をくれるのだろうか。私は彼に何を贈ったらいいだろうか。
 そんなことで頭がいっぱいだったような気がする。
 しかし、現実はこの通り。彼に贈るプレゼントの用意もしてないし、デートの約束もしていない。暢気にいつも通りスキンケアに精を出している。

「そうだ。頭を抱えている場合じゃないわ。とりあえず明日の予定を……」
 慌てて私は携帯を手に取った。
 そこでまたはっと気がついてしまう。明日は嬉しくもない休日出勤。デートの約束は夕方以降になる。それなのに、可愛い服の一枚もない。こんな時間では買いに行くこともできない。待ち合わせの前に慌ただしく服を選ぶ、なんていうこともしたくない。そんなことをするくらいなら、少しでも早く彼に会いたい。
 彼と過ごす初めてのクリスマスだから気合いを入れたい、と思っていたのに。
 しばらく考えた末、私は再び携帯を握りしめる。
「仕方がないわ。この際服はコーディネートでなんとかするしかないわね。まずは、明日の待ち合わせ」
 私は手早くメールの本文を打ち込む。
 彼も忙しいと言っていたから、電話よりもメールの方がさっと用件だけ返せるからきっといいだろう。
『明日はどこで何時に待ち合わせる?』
 明日デートできる? なんて遠回りなことは聞かない。デートをすることは決定事項として話を進めなければ。できるかどうかなんて聞き方をしたら、そんな約束してたっけ? なんて返ってくるかもしれない。
 気遣いができない人ではないし、恋人達のイベントをおろそかにするとも考えられないけど、念には念を、だ。私のように明日がクリスマスイブだということを忘れているかもしれないし。
 時刻は23:59。ギリギリだ。
 彼からの返事を待ちながら、私は明日のために念入りにスキンケアを再開した。


4つめ。
posted by はにわさぼてん at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

除夜の鐘【4】

 淡々と除夜の鐘の音は鳴り響いてくる。

 17、18、19、20……

 人には108つの煩悩があると言われているが、本当にそんなにあるのだろうか。それにどこからどこまでが煩悩なのだろうか。たしか煩悩って悩んだりするようなことや欲とかそういうのではなかっただろうか。

 欲というと食欲とか睡眠欲とか性欲とか物欲とか。その程度しか思いつかないが。それでも4つだ。あとの104つはいったいなんなんだろうか。着飾ろうとしたり、褒められたいとかいうのも煩悩に含まれるのだろうか。
 なんでもかんでも欲になると生きようとするのも欲なんだろうか。不老不死を本気で願うような人もいるくらいだから、煩悩にはいるのかもしれない。

 75、76、77、78、79……

 除夜の鐘に思いつく煩悩の数が追いつかない。煩悩の数が少ないといういいことなのか、思いつかない俺の頭の悪さがいけないのか。
 煩悩を払うはずの鐘の音にいろいろと悩まされている気がする。
 そんなことを考えているうちに、なんだか暑くなってきて、俺は炬燵をいったん切ろうかと中に手を伸ばした。しかし、いくら探ってもスイッチがついているコードが見つからない。手に触れるのは熱くなっているカーペットや、炬燵の脚ばかりだ。

 98、99、100、101……

 いつのまにか108つまでもうすぐになっている。
 せっかくここまで数えたのだから、最後まで数えよう、と俺はコードを探す手を止めて鐘の音に耳を向けた。

 105、106、107、108……

 終わった。
 また新しい年がくる。また一つ年をとる、

 109……

 あれ?
 なんで108つ以上鳴らすのだろうか。数え間違えたか?

 110……

 おかしいな、初めからきちんと数えていたはずなんだけど。
 まだ今年のうちなのか、それとも来年になってしまっているのか、と俺は手許に置いてあった携帯を見た。しかし、いつのまにか充電が切れてしまっている。この部屋には壁掛け時計や置き時計なんて物はない。携帯で見るか、テレビの時刻表示を見るしかない。
 そうだ。テレビだ。テレビをつけてみれば、今が何時なのかわかるはずだ。
 俺は消していたテレビを再びつけた。
 画面の中では消す前と同じく鐘を突いている映像がでている。
 まだ今年だったことに少しホッとしながら、俺はテレビの音だけを消して、どこかで間違えたらしい鐘の音の数をカウントし続けていた。

 131、132、133、134……

 いったいどこでどういった間違え方をしたのだろうか、と思ってしまうくらいに俺の中で除夜の鐘はとんでもない数になっていく。
 場所によっては参拝客に回数に関係なく突かせる寺もあると聞いたことはあったが、この近所の寺がそうだとは聞いたことがない。

 198、199、200、201……

 なんだかもう少しで二人分の煩悩を払える数になりそうだ。

 ここでようやく、何かがおかしい、と俺は気がついた。
 だってそうだろう。二人分になりそうなくらいカウントしているんだ。同じペースで突いているテレビの中でも、もう終わっていても、来年になっていてもおかしくはない。まさか気がつかないうちに、一回の鐘の音で重複してカウントしているなんてことはないだろうし、この年になって数を数えられないなんてバカな話があるわけもない。幻聴、という線もまずないだろう。怪しいクスリはやってないし、ビール二本くらいで酔うわけがない。

 253、254、255、256……

 待て。
 どうして俺は今日に限ってビールを二本しかあけてないんだ?
 なんとなくカウントしながらもビールをあけている気にはなっていたけど、炬燵の上には空き缶はそれ以上は転がっていない。

 これは一体、どうなっているんだ?


 はっと気がつくと、俺は炬燵に突っ伏していた。
 画面の向こうでは新年を待ちわびた人がカウントダウンを開始しようとしていた。
 いつの間にか俺は寝てしまっていたらしい。ということは、除夜の鐘のカウントに失敗したということだ。
 なんとなく悔しいものを感じながら、俺は画面の中で声をそろえてカウントダウンしているのを聞いていた。

 8、7、6、5……


終〜了〜
posted by はにわさぼてん at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

除夜の鐘【3】

 まったく、帰ってくるなと言うなら、もっと早くに教えて欲しかった。そうすれば仲間の一人くらいはこっちに残ってくれたかもしれないのに。そうすれば、こうして独り寂しい年越しを過ごすことにはならなかったはずなのに。
 忘れられない程度に早めに連絡を、と思ったのがまずかった。それともあの子にさっさとアタックしなかったのが悪かったのだろうか。アタックしたとしても、今日独りでなかったとは限らないけど。
 なんにしても、今年最後でついてなかったことにかわりはない。その分来年、いいことがあると期待しよう。あまり期待できないけど。

 そんなことを思い出しているうちに、テレビの中では紅白が終盤を迎えていた。
 今年の小林幸子の衣装は俺的にはいまいちだ。もっとインパクトがあるほうがおもしろいと思うんだけど、いろいろ難しいのかもしれない。
 右から左に流していたような紅白も終わり、これまた毎年恒例の行く年来る年の時間になる。
 実家にいると両親につられてさっさと寝てしまうことが多いから、しっかり見るのは今年が初めてだ。
 初めて見て思うのだが、どうしてこれが視聴率高いのだろうか。他にはおもしろい番組はないのだろうか、とチャンネルをまわしていく。その一瞬毎に似たような騒がしさが飛び出してくる。お笑い芸人を出して何かをやっているような番組だらけなのかもしれない。
 なんとなく、行く年来る年が高視聴率を確保しているのがわかった気がした。
 新しい年を迎えようとしている時まで、バカ騒ぎは見たくないかもしれない。バカ騒ぎを見たまま新年を迎えたら、その年はバカ騒ぎをして終わってしまいそうな気がしてくる。いや、バカ騒ぎが嫌いなわけではないけど。

 再び画面を行く年来る年に戻すと、除夜の鐘をつき始めているところだった。
 もしかして近所の寺でも突いているだろうか、とテレビを消して耳をすませてみる。
 少しの間黙っていると、やはり近所の寺からも除夜の鐘の音が聞こえてきた。
 せっかくだから、と俺はこのまま近所の除夜の鐘を聞いていることにした。電波を通した鐘の音よりも、音が遠くても直に聞いた方が煩悩が払えそうな気がする。

 三つ。
 四つ。
 五つ。
 なんとなく俺は聞こえる音を数え始めていた。
posted by はにわさぼてん at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月07日

除夜の鐘【2】

 仕事納めの日も決まり、実家に帰る予定を組もうと思った俺は、実家に電話をした。
 母親は帰らないと機嫌が悪くなるくせに、事前に連絡しないとまた機嫌が悪くなるのだ。以前には連絡するのが早すぎて、突然帰ったかのように迎えられたこともある。たぶん、1,2週間前くらいに連絡するのがちょうどいいらしい。
 週末の遅くなりすぎない時間に(これもまた遅すぎると両親は夢の中に突入している恐れがあるのだ)俺は実家に電話をした。
 よほどタイミングが悪くない限り、母親は3コールで受話器を上げる。それ以上で出ない場合は出かけているか、寝ているかだ。
「もしもし」
 母親の間延びした声が聞こえてくる。とりあえず、機嫌も具合も悪くないようだ。
「あ、お袋? 俺」
「あら。どうしたの」
 だいたい俺が連絡する時は帰るという用件でしかないというのに、母親は常にそう聞いてくる。
「あぁ、年末なんだけどさ。29日にそっちに行こうかと思ってるんだけど」
「29日?」
「仕事納めが28日だからさ」
「あ、ダメだ」
「は?」
 帰ると言って、ダメだと返されたのは初めてかもしれない。盆くらい帰って来いだとか正月くらい帰って来いだとかはよく言われてきたが、まさかダメと言われるとは。
「ダメって、何でだよ。何かあんの?」
「あるっていうか、28日からお父さん撮影旅行に行くことになってるのよ」
 あぁ、またか。
 定年間際でカメラに凝りだした父親のために、時々あちこちに撮りに行っているらしい。帰る度に居間の壁に写真が増えていくのだ。
 自慢するかのようにどこにいったの、何を撮ってきたのという話を聞かされているが、今回は何を思ったのかこの時期に撮りに行くとは。
「そう。で、どこに行くのさ」
「今回は摩周湖あたりを撮ってくるのよ」
「摩周湖? 霧ばっかで何も写らないんじゃないのか」
「だから、霧が晴れるのを待つために1週間くらい向こうに滞在するのよ」
 まさかこの休暇全てを費やしてまでの撮影旅行だとは思わなかった。
 企画は絶対親父だ。1週間も摩周湖に滞在するなんて考えるのは親父でしかない。母親なら何カ所かまわるコースを選ぶはずだ。もちろん、グルメ重視で。
「そうか。じゃぁ、今回はこっちで独りで年越すよ」
「あら。なんだったら一緒にいく?」
「いいや。こっちでのんびりするから」
「そう?」

 と、こういうわけで俺は独り寂しい年越しを過ごすはめになったのだった。
posted by はにわさぼてん at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

除夜の鐘【1】

 大掃除完了。
 年賀状も出した。
 食料も買い込んである。
 年越し蕎麦も、酒も炬燵もミカンもばっちりだ。
 指折りながら確認し、やり残したことがないことを確認すると、俺は一つ大きく頷いた。
 刻は師走も師走。まさにあと数時間で新しい年を迎えようとしている。
 思い返せば、ここまで念入りに年越しの準備をしたのは初めてかもしれない。去年までの大掃除は、仕事納めの翌日に物を整理して、掃除機をかけて、というくらいしかしてなかった。それが今年は、タンスから本棚から全て動かしてその裏まで徹底的にほこりを落とした。水回りもこれでもかというくらいしつこい湯垢と何時間も格闘した。壁紙に染みついたヤニを落としきれずに、微妙に斑な模様ができてしまったのは、ご愛敬ってやつだ。

 すっきりした風呂でゆったりとお湯につかり、こざっぱりとした部屋の中でビールとミカンを用意した炬燵の中に入る。
 風呂上がりの火照った身体に、冷たいビールが染み渡っていく。テレビの中では年末の特番で盛り上がっている様子が映し出されている。本気で楽しんでいるのか、そういう振りをしているのかはわからないが、うっかりボリュームを上げれば近所迷惑になりかねないテンションを見て、俺は自信の状況にため息をついてしまう。
 本当は気のいい仲間達と夜通し飲み続けるとか、可愛い彼女とまったりという年越しをしたかったのだが、今俺は独りだ。
 いや、本当なら可愛い彼女と一緒に過ごすということも不可能ではなかった。しかし、クリスマスの直前に玉砕していた。職場で目をつけていた子が、別の部署の優男と付き合いだしてしまったのだ。影からこっそりと見ていただけで(間違ってもストーキングはしていない)、俺の何度目かの恋は終わっていたのだ。
 悲しいような情けないような気分をごまかすかのように、俺は二本目のビールを空けた。
 一口目と同じように染み入る感じはなく、炭酸が喉を刺していく。
 一緒に飲み明かそうかと思った気のいい仲間達は、例年通り仕事納めの後、さっさとそれぞれの実家に帰ってしまっている。その辺のちょっとした連休くらいならいくらでも遊び続ける奴らだが、さすがに年末年始はそれに当てはまらないらしい。
 俺も去年までは、仕事納めの後すぐに実家に帰っていた。
 いつ結婚するのか、という母親の攻撃は痛いが、のんびりできたし、何より食費が浮く。親父の趣味でいい酒が飲めることもある。
 今年はいったいどんな酒が待っているのだろう、と思っていたのだが、俺は大晦日である今日、独りで炬燵でビールだ。

 俺が独りで寂しくビールを煽っているのは、あの両親のせいだ。

ということで
posted by はにわさぼてん at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

だいじなもの【4】

 家に帰宅した彼と父親は、母親と三人で夕食を食べていた。
 いつもと同じような出来事の報告を、彼は両親にしている。しかし、その中に彼が昼間会った妙な生き物の話は出てくることはなかった。話さない方がいいと判断したのではなく、彼の頭の中からはその事実だけが丸々抜け落ちていた。だから彼が話したのは、父親が待っていろと言っていた間、一人できちんと待っていることができた、というものだけだった。

 父親は食事が終わると、買ってきた酒瓶を自ら持ち出し、飲み始めた。
 嬉しそうに杯を空けていく父親を見て、彼もなんとなく嬉しさを味わっていた。自分が運んだということが、とても誇らしいことに思えてくる。
 普段は両親がおいしそうに口にする物はなんでも、自分も、とせがんでいる彼だったが、これに関してだけはそういう気分になることはなかった。もっとも、せがんだとしても父親が飲んでいるのは酒であるから父親も彼の要望に応えることはなかっただろう。もちろん、彼は酒は子どもが飲むものではない、などと知りもしないし、飲みたいとも思わないのが妙な生き物の忠告のためだなどとは思いもしなかった。
 ただ、父親が嬉しそうだということだけが、今彼の中の全てだった。

 翌朝、彼が眼を覚ますと、どこか家の中の雰囲気がおかしかった。
 うるさいわけではないがなんとなくざわざわと落ち着かない。静かに部屋の外を行き来しているような足音もしている。
 部屋の外に出た彼は、母親を捕まえた。
「おかあさん、おはよう。どうしたの?」
「あ、起きたの?」
 母親は一瞬、その綺麗な形の眉を寄せた。それはこんなにも早く彼が起きてくるとは思わなかった、と思ったためであったが、彼は気がつかない。ただ何か悪いことを言ったのだろうか、と感じていた。
 しかし、すぐに母親は元の優しい表情を取り繕った。
「まだ眠いでしょう。寝てていいのよ。あ、うるさかったかしら?」
「ねむくないよ。おとうさんは? おとうさんにもおはようをいう」
「……。おとうさんはまだ起きてないから。だから、あなたもお部屋に戻りましょう」
 いつも自分より早起きの父親が起きていない、ということが彼には不思議でならなかった。
 直感的に父親に何かあったのではないか、と感じた彼は後ろで母親が止めるのも聞かず、父親の寝室に向かって駆け出していた。

 寝室では母親の言ったとおり、父親が眠っていた。
「おとうさん。あさだよ! おはよう!」
 耳元で大きな声でそう言っても、父親は眼を覚まさない。
 何度お父さんおはよう、と声をかけても父親はただ静かに呼吸を繰り返すだけで、身動き一つしない。
 どうしたのだろう、と彼が思っているところに、母親と見知らぬ男性が寝室に入ってきた。
「さぁ、いい子だからお部屋に行ってましょう」
 母親に促されるまま、彼は寝ていた部屋に戻っていった。
 父親はきっとそのうち眼をさますだろう。そう思っていた。
 しかし、父親は見知らぬ男性が出ていっても、昼食の時間を過ぎても、夜になっても目を覚ますことはなかった。

 それからかなりの月日が過ぎていったが、父親はついに目を覚ますことなく鬼籍の中に加わることになった。
 父親が眼を覚まさなかった原因が、あの奇妙な生き物と交換したものにあった事に、彼が気がつくことはなかった。

第二弾終了
posted by はにわさぼてん at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

だいじなもの【3】

 彼は妙な生き物が差し出してくる酒瓶をじっと見ていた。
 目の前に差し出されている酒瓶は、形こそ彼が抱えているものとそっくりではあったが、中身はどうかわからない。
 じっと睨むように見ていた彼は、大きく首を横に振った。
「だめ。これはおおとうさんのだいじなものだから」
 しっかりと彼は拒絶の意志を示したというのに、妙な生き物は酒瓶をしまう様子はみせない。
「中身はそれとかわらん。ただ、こっちのほうが珍しいだけだ」
 同じものならとりかえてもいいのだろうか。彼は妙な生き物の顔を見上げながら考えていた。それに取り替えると言わない限り、この妙な生き物は去りそうにもない。
 大きな身体でじっと見下ろされているうちに、彼はこの妙な生き物が次第に恐ろしく感じるようになってきていたのだった。自分がここから動くわけにはいかないので、早くこの妙な生き物に立ち去ってほしくなっていた。
「これとおなじなら、とりかえっこしてもいいよ」
 とうとう彼は、そう口にしてしまった。
 妙な生き物は満足そうに頷くと、持っている酒瓶を差し出してきた。彼もゆっくりと父親の大事なものを差し出す。
 そうして、妙な生き物との交換が成立した。
「感謝の証として、一つ忠告しよう。お前はそれを飲んではいけない」
 それだけ言うと、妙な生き物は風とともに消えてしまった。どこに消えてしまったのだろうか、と周囲を見回しても姿はなく、今まで忘れていた道行く人々の姿が見えるだけだった。
 彼は、いったい今のはなんだったのだろうかとしきりに首を傾げていた。まるで何事もなかったかのような通りの様子に、妙な生き物が現れたのも、それと物を交換したのも気のせいだったのではないかとさえ思えてくる。

 彼の小さな頭の中で、妙な生き物との会話や物々交換などの出来事が全てかすんできた頃、ようやく彼の父親が戻ってきた。
「待たせて悪かったな。さぁ、帰るか」
 父親は彼の頭を一撫ですると、彼の手をとって家に向かって歩き出した。
posted by はにわさぼてん at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月28日

だいじなもの【2】

 彼は父親の大事なものを抱えながら、道行く人を眺めていた。
 道行く人の中には、彼のことを気にする素振りを見せる者もいたものの、誰も声をかけようとはしなかった。その身体に不似合いな大きさの荷物を抱えていることや、じっと立っていることから、保護者を待っているものだと思ったのだろう。
 不意に強い風が吹いた。
 彼は咄嗟に眼を閉じた。風がやんだことを感じた彼が眼を開けると、すぐ前に妙な生き物が立っていた。
 父親と同じくらい大きく、服装もその辺を歩いている人達とそれほど変わりはない。ただ、首から上がおかしい。蛇のような鱗に覆われ、髪は波打ちながら逆立っている。顔は不自然なほど長く、耳まで裂けている口からは、白い牙が覗いていた。
 妙な生き物は、鼻先から伸びた太く長い髭を撫でながら、彼をじっと見ていた。
 いったいこれはなんだろう、と彼もこの妙な生き物をじっと見ていた。
 道行く人々はそんな妙な生き物がいるということには気がついていない。ただ彼が何かを見ている、もしくは何も見てはいないのかもしれない、としか思っていなかった。
 彼と妙な生き物はしばらくそうして見つめ合っていた。

「一人で何をしている?」
 妙な生き物は低く静かな声で彼に話しかけてきた。
おとうさんをまってるの」
「それは何だ?」
 そう言って妙な生き物は彼が抱えているものを指さした。
 妙な生き物から隠すように、彼は抱えているものごと身体の向きを変えた。それでも顔はしっかりと妙な生き物に向けられている。
「おとうさんのだいじなもの」
「大事なものとは何だ?」
「だいじなものだよ」
 わかったのか、わからなかったのか。妙な生き物は髭を撫でながら低く唸った。髭を撫でながらも、視線は彼が抱えているものに向けられている。
 彼も取られてはたまらない、と必死に妙な生き物を睨んでいた。

 そうして、妙な生き物はおもむろに懐に手を突っ込むと、彼が大事に抱えているものと同じようなものを取り出した。
「それとこれを交換しないか」
 
posted by はにわさぼてん at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月27日

たいじなもの

「いらっしゃい。おや、もうそんな時期かい?」
「何言ってるんだ。酒瓶ばかり見ていて、日付もわからなくなったんか」
 店先に顔を出した途端、からかうように言葉をかけられた。しかし、いつものことなのか、男は気にするどころか、笑顔で返していた。
 毎月この時期になると、男はここに来て決まった銘柄の酒を決まった量だけ買っていく。決して安い銘柄ではないものを、月に一度、自分へのご褒美がわりにしているのだった。
 男の影に隠れるようにして、一人の男の子が二人の会話を黙って聞いていた。男の息子だった。
 何が楽しくて父親と店員が笑っているのかがわからなく、彼は小さな首を傾げていた。そのまま短い会話とともに父親が酒瓶を買うのを黙って見ていた。もっとも、彼には父親が何を買ったのかはわかっていない。ただ、それを受け取った父親がとても嬉しそうに見えたために、大事なものなのだろう、と漠然と感じ取っていた。

 なんとかく、それを抱えてみたくなった彼は、父親に向かって必死に手を伸ばしていた。
「お? どうした? 疲れたのか?」
「もつ!」
 てっきりおんぶかだっこを要求されているのだと思った父親は、咄嗟には彼の言っていることが理解できなかった。一瞬の間をおいて、ようやく「もつ」を「持つ」と変換できた父親は、彼の目の前に先ほど購入したばかりの酒瓶を出してみた。
 抱えさせてくれるのか、と彼はぱっと期待に顔を輝かせた。
 父親は少し迷ったようだった。しかし、そう簡単に割れるものでもなし、一升瓶でもなし、大丈夫だろう、と判断したのか彼に酒瓶を預けてくれた。
 父親の大事なものを抱えているということが、どこか嬉しくて、誇らしくて、彼は満面の笑顔で酒瓶を抱えながら歩いていた。

 そうして少し歩いたところで、急に父親が足を止めた。危うくぶつかりそうになりながらも、彼もなんとか足を止めることができた。
「どうしたの、おとうさん?」
「おう。ちょっと忘れ物だ。いいか、父さんはちょっと行ってくるけど、お前は転ぶと危ないからここで待ってるんだ。いいな」
「うん」
 一緒に行っても危なくない、といつもの彼ならば主張しただろうが、今は大事なものを抱えているということですっかり上機嫌になっていて、素直に頷いていた。
 彼がしっかりと頷いたのを確認すると、父親は彼から離れていってしまった。
 遠ざかっていく父親を見送りながら、彼は両手でしっかりと大事なものを抱えていた。

そういうわけで
posted by はにわさぼてん at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月23日

Secret of…… 【4】

「あの、ね。本当は、あなた達にはずっと黙ってようと思っていたんだけど……」
 父が隠していた事実を知り、どうしようかと困惑している中、母が躊躇いがちにそう切り出した。
 父に続いて、母も何か隠し事をしていたというのだろうか。
 一体何をいうのだろう、と無意識に私と弟は緊張していた。
 相当言いづらいことなのか、母は何回か視線を彷徨わせていた。テーブルの上に置かれた両手も、休む間もなく動かされている。
 ようやく決心がついたのか、再び母は口を開いた。
「実はね、お姉ちゃんを産んだ後、子どもができなくなっちゃって……。でも、どうしても男の子も欲しかったから……養子をもらったの」
 思考が一瞬、止まってしまった。
 まさか弟とは血が繋がってなかったとは思ってもいなかった。確かに似てないな、とは思っていた。けれども、姉妹とか兄弟ではなく姉弟だから、似てなくても不思議はないだろう、と思っていたのだ。
 弟も同じだったようで、思わず私たちは顔を見合わせていた。

 父の死と隠されていた事実が二つ。
 まるで昼ドラのような展開だ、と空回りしている感じのある頭で私は考えていた。いや、ベタ過ぎて昼ドラでもこんな展開はないかもしれない、

 ぼんやりとしている私の横で、弟がため息をついた。
 ため息をつきたくなるのもわかる気がした。こんなタイミングで明かされては、怒ることも嘆くこともできない。
「そっか。俺、ここの本当の家族じゃなかったんだ」
 そう。ただ受け入れるしかないだろう。
「よかった」
 おや?
 弟の言葉に引っかかりを覚える。母も理解できてないようで、眉をハの字にして弟を見ている。
 本当の家族じゃなくてよかった、と思うほど弟は私たちのことを嫌っていたのだろうか。
「実はさ、俺、地球人じゃないんだ」
 実は宇宙人でした、というのだろうか。そういえば三島由紀夫の作品にそういうのがあった気がする。
「この姿も借り物でさ。ちょっと不注意でこの姿の地球人を死なせちゃったから、その代わりをしていたんだ。ずっと心苦しかったんだけど、本当の家族じゃないと知って、少しホッとしたよ」
「養子だったことを隠してたから、そんな冗談を言っているの?」
 母が少し苛立ったような口調で弟にそう言った。母の言うとおりだとしたら、タイミングを間違えた最悪な冗談だ。
 しかし弟は冗談なんかじゃない、と真面目な顔で否定した。
「その証拠に、ほら」
 そう言って弟は、姿を変えた。その姿は、肌の色は青っぽく、白目と黒目に分かれていない不思議な眼をしていた。身体の形はそれほど普通の人間と変わりないのに、肌と眼が違うだけで、かなり不思議な生き物に見えた。
 母は弟、いや、弟と思っていた宇宙人の姿を見ると、妙なうなり声をあげて、頭を抱えてしまった。
 息子だと思っていたのが別人で、しかも宇宙人だったとわかれば、それは頭を抱えたくもなるだろう。
 弟? は本来の姿では衝撃が大きすぎると思ったのか、すぐにまたもとの地球人の姿に戻った。

 なんだかこんな流れになってくると、私も秘密にしていたことを打ち明けなくてはいけない気になってくる。
「私ももう少し、黙ってようと思ってたんだけど……」
 気分のままに言葉を出すと、母がこれ以上は何も聞きたくない、という顔で見上げてきた。
 やはり言うのはやめた方がいいかもしれない。けど、今更言いかけたことをやめるのも気持ちが悪い。
「私ね、もう死んでるの」
 母も弟も、今までで一番驚いた顔をしていた。
 それもそうだろう。私は今日まで一緒に食事をしたり、仕事に行ったりとそれまでと変わらない生活をしていたのだから。
 けど、これも冗談なんかではない。
「知らない人に山の中に連れて行かれて。殺されてそこに埋められてるのよ。あぁ、話したらすっきりした」
 すっきりしたと感じるのと同時に、私の身体が透けてきた。薄くなっていく身体に合わせて意識もぼんやりとしてくる。
 母も弟も驚いた顔のままで、どうすることもできずに消えていく私を見ていた。


 そのあと私の家族がどうなったのかは知らない。
 だって私はいわゆる成仏をしてしまい、消えてしまったのだから。

これにて
posted by はにわさぼてん at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Secret of…… 【3】

 その後、葬儀も無事に終えた私たちは、決して多くはない父の遺産の整理に取りかかることになった。
 とはいえ、特に土地を持っていたなど大きな資産があったわけではなく、ただ父名義の預金などの処理をしよう、ということだけだった。
 その処理の最中、父の戸籍謄本が必要になったのだった。

 役所で出してもらった、戸籍謄本は私たち家族の間に衝撃をもたらした。

 居間のテーブルの上に、戸籍謄本を広げながら私は愕然としていた。
 父は、母が初婚の相手ではなかったのだ。
 母の前に一回りも年上の女性と結婚していたらしいのだ。今、その女性がどこにいるのかも、その人との間に子どもがあったのかも、どうして別れたのかも、もはや知りようはない。
 驚いている私と弟の前で、母はどこか落ち着いているようだった。父の死に目も当てられないほど嘆いていた母だから、この事実には狂ってしまうのではないかと思った。しかし、母は冷静にこれを受け入れていた。
「お母さん? 知ってたの?」
 二人で黙っていたのだろうか、と思う私に、母はゆっくりを首を横に振った。
 それは驚くのも悲しむのももう疲れた、と言わんばかりに弱々しい動きだった。
「結婚した時にはもう、結構いい年だったからね。そういうことがあったとしても不思議じゃないかなって、お見合いの時にも思ったのよ。」
 両親は晩婚だった。なんで私の両親は、友人の親よりも老けているのだろう、と不満に思ったこともあった。
 黙って聞いている私と弟に母は更に話し続けた。
「今思えば、おかしいな、ってことがいくつかあったのよ。お父さんの方の、お見合いの世話をしてくれた人が、その直後に連絡が取れなくなったりとか。婿養子に入ることも、お父さんがいいだしたのよ」
 きっと父の見合いの世話をした人は、父が初婚ではないことを知っていたのだろう。そして何かの弾みに自分から漏らしてしまうかもしれないことを考えて、連絡を絶ったのかもしれない。
 父が養子に入ると言い出したのも、離婚のことを知られたくなかったためだろう。
 なぜ、そこまでして離婚のことを隠したかったのかはわからない。初婚ではないと知って母が去っていくと考えたのかもしれない。何か自分に欠点があると思われたくないというプライドだったのかもしれない。

 父がいない今、こんなことを考えていてもどうしようもないというのに、私も、弟も黙ったまま、広げた戸籍謄本を眺めていた。
posted by はにわさぼてん at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月22日

Secret of…… 【2】

 動揺しているようではあったが、電話の向こうの母の声は意外にもしっかりしていた。
 母の様子から大丈夫なのかとも思ったが、とりあえず心配なので、仕事を早退し、私は病院に向かった。帰宅時と同じ電車のルートをたどり、駅からは家と違う方向に向かう。大丈夫かもしれない、という思いが私の足をあまり急がせない。朝、遅刻しそうになった時の方が急いでいた。

 病院に到着した私は、今父がどこにいるのかを母から聞いていなかったことに気がつき、受付で場所を聞いた。
 受付の女性から聞いた場所は、病室ではなく、処置室だった。
 処置室のあるフロアにつくと、廊下に据え付けられているイスに座っている母の姿をすぐに見つけた。弟はまだ来ていない。
 うなだれるように座り、祈るかのように手を組んでいる。
 足音で気がついたのだろう。母はゆっくりと顔を上げた。
 その母の顔を見た瞬間、もう少し急いで来れば良かった、と私は後悔した。
 母は、朝とは別人のように青白い顔をしていた。この顔であれだけしっかりとした電話をしてこれたのが不思議でならないくらいだ。
 足音をできるだけ殺しながら、母のところに駆け寄る。母は私に縋るように立ち上がった。その力ない動作一つを見ても、母は今にも倒れてしまいそうだった。
お父さんは?」
 母をゆっくりと座らせると、私もその隣に座る。
 体温があるほうが落ち着くのだろう。母は私の手を握ってきた。
「まだ。ずっと意識が戻らないのよ」
 閉じられたままの処置室のドアを見上げた。
 白いドアは、私たちと父を、強固に隔てようとしているかのように見えた。
「……このまま、なんてことになったらどうしよう……」
 私の手を痛いくらいに握ったまま、母は震える声で呟いた。母の呟きは、私が母の顔を見た瞬間から漠然と感じていたことだった。
 そんなことはない。そう思っていたらそれが現実になってしまう、と否定したかった。しかし、母と同じ恐怖が強く、否定してあげることはできなかった。むしろ、私も誰かに否定して欲しかった。
 母と黙って処置室のドアを見上げていると、弟が到着した。
 よほど私たちは酷い顔をしていたのだろう。私たちの顔を見るなり、弟も顔色を変えた。

 それからどれくらい経っただろうか。
 5分かもしれない。
 何時間も経っていたのかもしれない。
 息苦しい空気に押しつぶされそうになっていた私たちの前で、処置室のドアが開かれた。
 私も、母も、弟も、中から出てきた医師に先を争うかのように駆け寄った。
「先生、主人は……」
 必死の形相で詰め寄る母を、医師は痛々しい眼で見た。
 その瞬間、悲しみと安心とが混じったような不思議な感じがした。おそらくはダメだったことの悲しみと、息苦しい空気から解放されたことの安心だったのだろう。しかし、その不思議な感じがしたのは一瞬で、すぐに悲しみ一色に染められてしまっていた。
 医師の目を見た母は、そのまま泣き崩れてしまった。

 泣いている母を助け起こし、私たちは診療室の中に入れてもらった。
 横たわる父は、まだ顔に赤みも残っていて、ただ静かに寝ているかのようだった。
 母は今度は動かない父に縋り、泣き始めた。
 母の小さな嗚咽が拷問のように突き刺さっていく。
 いたたまれなくなった私と弟は静かに診療室を出た。
posted by はにわさぼてん at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする